ムン・ドンウンの背中に刻まれた火傷の跡を初めて見た瞬間、私は息を呑みました。ヘアアイロンで焼かれた傷跡が、まるで悪意の地図のように広がっていたのです。
『ザ・グローリー』を見終えて数日経った今でも、あの映像が頭から離れません。このドラマが描くいじめは、私たちが想像する「学校でのちょっとした意地悪」とはまったく違う次元の話でした。
なぜ加害者たちは「普通」を装えるのか?
ドラマで最も恐ろしかったのは、加害者たちが大人になって「立派な市民」として生きている姿でした。医師、気象キャスター、画廊オーナー。彼らは高級車に乗り、ブランド品を身につけ、社会的地位を手に入れています。
韓国社会では「成功」が何よりも重視される風潮があります。そのため、過去の罪は学歴や職業、経済力によって簡単に覆い隠されてしまうのです。ドンウンが復讐を決意したのも、この不条理な現実への怒りからでした。
実際、韓国では有名人の学生時代のいじめが暴露されるたびに大きな議論を呼びます。しかし時間が経てば、多くの加害者は何事もなかったかのように活動を再開します。『ザ・グローリー』は、この社会の「忘却」のメカニズムを鋭く突いています。
復讐は本当に「痛み」を癒すのか?
18年という歳月をかけて準備された復讐。ドンウンは医学を学び、囲碁を習得し、加害者たちの弱点を一つずつ調べ上げました。その執念は、視聴者に爽快感を与えると同時に、深い悲しみも感じさせます。
韓国のドラマでよく描かれる復讐劇ですが、『ザ・グローリー』の復讐は少し違います。ドンウンは単に加害者を苦しめたいのではなく、「なぜ私だけが苦しまなければならないのか」という問いへの答えを求めているように見えました。
しかし、復讐が進むにつれて、ドンウンの表情に変化は見られません。彼女の心の傷は、加害者が苦しんでも癒されることはないのです。これは現実の被害者が抱える永遠の苦しみを表現しているのかもしれません。
視聴者である私たちの「共犯性」とは?
このドラマを見ながら、私は自分自身に問いかけずにはいられませんでした。加害者たちが次々と破滅していく様子に、なぜこんなにも満足感を覚えるのか、と。
韓国社会では「応報正義」への強い願望があります。悪いことをした人間は必ず罰を受けるべきだという考えです。しかし、現実はそううまくいきません。だからこそ、ドラマの中で実現される「完璧な復讐」に、私たちは熱狂するのでしょう。
でも、この熱狂こそが、いじめという暴力を「エンターテインメント」として消費してしまう危険性をはらんでいます。被害者の痛みを、私たちはどこまで理解できているのでしょうか。
韓国の学校が抱える「序列」という病
ドラマの中で、加害者グループのリーダーであるヨンジンは財閥の娘です。この設定は偶然ではありません。韓国の学校では、親の社会的地位や経済力が子どもたちの序列を決めることが少なくないのです。
教師たちも、有力者の子どもには手を出せません。ドンウンの担任教師が賄賂を受け取って見て見ぬふりをしたように、大人たちも共犯者となってしまうのです。
この構造的な問題は、今も韓国社会に深く根を下ろしています。『ザ・グローリー』放送後、多くの視聴者が自身のいじめ体験をSNSで告白したのも、この問題がいかに普遍的であるかを示しています。
「記憶」することの意味
ドンウンは18年間、一日も加害者たちのことを忘れませんでした。その記憶は彼女を苦しめ続けましたが、同時に生きる原動力にもなりました。
韓国では「恨(ハン)」という独特の感情があります。不当な扱いを受けたことへの深い恨みと悲しみが混ざった感情です。ドンウンの復讐は、まさにこの「恨」の具現化といえるでしょう。
しかし、記憶し続けることは被害者にとって二重の苦しみでもあります。忘れたくても忘れられない。前に進みたくても過去に縛られる。『ザ・グローリー』は、この矛盾を残酷なまでにリアルに描き出しました。
ドラマが終わっても消えない問い
最終話を見終えた後、私の心には重い問いが残りました。果たして、本当の意味での「グローリー(栄光)」とは何だったのか。
復讐を成し遂げたドンウンに待っていたのは、新しい人生の始まりでした。しかし、彼女の傷跡は消えることはありません。加害者たちが受けた罰も、過去を取り消すことはできません。
このドラマが世界中で共感を呼んだのは、いじめという普遍的な問題を扱いながら、簡単な答えを出さなかったからかもしれません。正義とは何か、赦しとは何か、そして人間の尊厳とは何か。これらの問いは、画面の中だけでなく、私たちの現実社会にも突きつけられています。
『ザ・グローリー』は単なる復讐劇ではありません。それは、いじめという社会の病理を通して、人間の本質を問い直す作品なのです。