『海街チャチャチャ』が映し出す、もうひとつの韓国の風景

雨に濡れた二人が手を繋いで海に向かって走る場面を見た瞬間、私はソウルの高層ビル群から遠く離れた場所へと心が運ばれていきました。『海街チャチャチャ』のエピソード5で描かれるこのシーンは、単なるロマンチックな演出以上の何かを持っています。


都会の歯科医師ユン・ヘジンが辿り着いた架空の村「コンジン」は、韓国の地方都市が持つ独特の時間の流れを見事に表現しています。ソウルで暮らす私たちにとって、このドラマは「失われつつある韓国」を映し出す鏡のような存在かもしれません。


海街チャチャチャの主演男女が海を背景に立つNetflixドラマポスター


なぜ海辺の村の日常がこんなにも心を打つのか?


ドラマの中で繰り返し映される海岸線や、色とりどりの家々が並ぶ路地の風景。これらは単なる美しい背景ではありません。韓国の急速な都市化の中で、多くの人々が置き去りにしてきた「ゆっくりとした生活」への郷愁を呼び起こします。


主人公ヘジンが最初は戸惑いを見せる村の「おせっかい」な人間関係も、実は韓国社会が伝統的に大切にしてきた「情(ジョン)」の文化そのものです。隣人の家の事情まで知り尽くし、困った時は誰もが自然に手を差し伸べる。これは煩わしさでもあり、同時に深い安心感でもあります。


特に印象的なのは、ガムニおばあさんへの治療シーンです。医療行為という都市的・近代的な営みが、村の温かな人間関係の中に自然に溶け込んでいく様子は、二つの世界が調和する可能性を示唆しています。


「万能ニート」が体現する、もうひとつの生き方とは?


ホン・ドゥシク(ホン班長)というキャラクターの設定は実に興味深いものです。高学歴でありながら定職に就かず、村のあらゆる仕事を引き受ける彼の生き方は、韓国社会の競争主義に対する静かな問いかけのようにも見えます。


ソウルでは「成功」の定義が画一的になりがちです。良い大学、良い会社、高い年収。しかしドゥシクは、そうした価値観とは異なる「豊かさ」を体現しています。必要な時に必要な人の助けになれること、自分のペースで生きること、そして何より、今この瞬間を大切にすること。


三人のおばあさんの夜が教えてくれること


ドラマの中で度々描かれる、三人のおばあさんたちの賑やかな夜の場面。お粥を作ったり、世間話に花を咲かせたりする何気ない日常の中に、実は深い哲学が潜んでいます。


最終回でガムニおばあさんが語る「私は今が一番幸せ」という言葉。これは単なる老人の諦観ではありません。人生の様々な段階を経て辿り着いた、「足るを知る」という境地です。都市生活では常に「もっと」を求めがちですが、田舎の暮らしは「今あるもの」の価値を再発見させてくれます。


スローライフは本当に答えなのか?


『海街チャチャチャ』が提示する田舎暮らしは、確かに理想化されている部分もあります。実際の韓国の地方都市は、高齢化や過疎化といった深刻な問題を抱えています。しかし、このドラマが描くのは単純な「田舎礼賛」ではありません。


ヘジンが都市から持ち込む医療技術や、ドゥシクが見せる広い視野は、閉鎖的になりがちな田舎社会に新しい風を吹き込みます。つまり、都市と田舎、伝統と革新、個人と共同体。これらの要素が調和することで、より豊かな生活が可能になるというメッセージが込められているのです。


韓国ドラマが世界に問いかけるもの


このドラマが韓国内外で大きな反響を呼んだ理由は、単にロマンスや美しい風景だけではないでしょう。現代社会が抱える普遍的な問題、つまり「どう生きるべきか」という問いに対して、ひとつの答えを提示しているからです。


競争と効率を追求する都市生活に疲れた人々にとって、コンジンの村は一種の「避難所」として機能します。しかし同時に、そこは単なる逃避の場所ではなく、自分自身と向き合い、本当に大切なものを見つめ直す場所でもあります。


ソウルの窓から漢江を眺めながら、私は時々コンジンのような場所を夢見ます。それは必ずしも実際に田舎に移住することを意味しません。むしろ、都市の中にいても「コンジンの精神」を持ち続けることができるのではないか。そんな希望を、このドラマは静かに語りかけてくるのです。



『ザ・グローリー』が映し出す韓国社会の闇―復讐では消えない傷跡の真実