練習室の鏡に映る70歳の男性が、ぎこちなくプリエの姿勢をとる。周りの視線は冷ややかで、家族からは「恥ずかしい」と反対される。それでも彼は、人生で初めてバレエシューズを履いた瞬間の高揚感を忘れられない。
韓国ドラマ『ナビレラ』の主人公シム・ドクチュルの姿は、私たち東アジア社会が抱える「年齢」という見えない檻を静かに問い直します。
なぜ70歳のバレエは「恥ずかしい」のか?
韓国でも日本でも、高齢者には「落ち着き」や「威厳」が求められます。孫の世話をし、静かに余生を過ごすことが美徳とされる社会で、レオタードを着てジャンプする70歳は確かに異質です。
しかし『ナビレラ』が巧妙なのは、この「恥ずかしさ」を否定しないこと。ドクチュルも最初は更衣室で着替えることすらためらいます。鏡に映る老いた体、硬くなった関節、周囲の若者たちの戸惑い。すべてがリアルに描かれます。
興味深いのは、韓国社会特有の「体面」文化がここで逆説的に作用する点です。「恥をかいてでもやりたいこと」があるとき、その恥こそが情熱の証明になるのです。
「今が人生で一番若い」は慰めの言葉なのか?
ドクチュルがよく口にするこの言葉、一見すると高齢者向けの励ましに聞こえます。でも違います。これは時間に対する東洋的な哲学なのです。
西洋的な時間観では、人生は直線的に進み、若さから老いへと不可逆的に流れます。しかし東アジアの循環的時間観では、「今」という瞬間は常に新しい始まりです。春夏秋冬が巡るように、人生にも新しい季節が訪れる。
ドクチュルのバレエは、失われた若さを取り戻そうとする哀しい試みではありません。70歳の今だからこそできる、70歳のバレエを踊ろうとしているのです。
世代を超えた師弟関係に見る新しい敬老思想とは?
このドラマで最も美しいのは、23歳の天才バレリーノ、イ・チェロクとの関係性です。伝統的な韓国社会なら、年長者が教え、若者が学ぶという構図が当然でしょう。
しかしここでは逆転が起きます。チェロクが技術を教え、ドクチュルが人生を教える。いや、それすらも単純化しすぎです。二人は互いに学び合い、支え合う。年齢による上下関係ではなく、夢を共有する仲間として。
ソウルの街角でも最近、このような光景を見かけます。カフェでプログラミングを学ぶ60代、K-POPダンスに挑戦する70代。彼らの先生は20代の若者たち。新しい敬老の形がそこにあります。
家族の反対は愛情か、それとも支配か?
ドクチュルの家族、特に妻の反対は激しいものでした。「みっともない」「けがをしたらどうする」「孫たちに顔向けできない」。
これらの言葉、聞き覚えがありませんか?東アジアの家族は、愛情と支配の境界線が曖昧です。「あなたのため」という言葉で、個人の夢を押しつぶすことがどれほど多いことか。
しかし『ナビレラ』は家族を悪者にしません。妻もまた、自分の夢を諦めて生きてきた世代なのです。夫の挑戦を見て、自分の人生を振り返る。やがて理解し、応援する側に回る過程が丁寧に描かれます。
なぜ「上手くなること」が目的ではないのか?
一般的なスポーツドラマなら、主人公は必死に練習し、最後には見事な演技を披露するでしょう。しかしドクチュルのバレエは、最後まで素人の域を出ません。
これこそが『ナビレラ』の核心です。彼の目的は、プロになることでも、完璧な演技をすることでもない。ただ「踊ること」そのものなのです。
現代社会は結果を求めすぎます。趣味でさえ「上達」が求められ、SNSで成果を披露することが当たり前に。しかし人生の後半において、過程そのものを楽しむことの価値を、このドラマは静かに訴えかけます。
アルツハイマーという現実が突きつけるものは?
物語の後半、ドクチュルにアルツハイマーの兆候が現れます。せっかく覚えた振り付けを忘れ、練習場所への道に迷う。
残酷な展開に見えますが、ここにも深い意味があります。記憶を失っても、体は覚えている。音楽が流れれば、自然に体が動く。これは単なる筋肉の記憶ではありません。魂に刻まれた喜びの記憶なのです。
「夢に遅すぎることはない」というメッセージは、ここで新たな深みを獲得します。たとえ明日すべてを忘れても、今日踊ったことに意味がある。その瞬間の充実こそが、人生の本質ではないでしょうか。
韓国でこのドラマが大きな反響を呼んだのは、急速に高齢化する社会への処方箋でもあったからです。年を取ることは終わりではなく、新しい始まり。その希望を、一人の老人のぎこちないバレエが体現してみせたのです。
『ナビレラ』は問いかけます。あなたの「今」は、何歳ですか?そして、その「今」で踊りたい夢は何ですか?答えを急ぐ必要はありません。ただ、考え始めることに、遅すぎることはないのです。