海南(ヘナム)の田舎道を歩く少年たちの後ろ姿に、私は現代韓国が失いかけている何かを見た。Wi-Fiすら繋がらない田舎の中学校で、廃部寸前のバドミントン部が奮闘する『ラケット少年団』。このドラマが語るのは、勝利の物語ではない。むしろ、負けることの美学だった。
最下位から始まる物語の意味
韓国社会は競争が激しい。ソウルで暮らしていると、誰もが一番を目指し、二番では意味がないという空気を日々感じる。だからこそ、このドラマの出発点に驚かされた。主人公ユン・ヘガンが所属する海南西中学校バドミントン部は、まさに最下位。部員はたった4人。練習場所も満足にない。
しかし、この「底辺」という設定こそが、現代韓国社会への静かな問いかけになっている。成功と失敗、中心と周縁、都市と地方—これらの二項対立を、少年たちは軽やかに飛び越えていく。
バドミントンという競技が持つ哲学的な深さ
なぜバドミントンなのか。野球でもサッカーでもなく。答えは、この競技の持つ独特な性質にある。シャトルコックは風に流され、予測不可能な軌道を描く。まるで人生のように。
ドラマの中で印象的だったのは、ヘガンが風を読む場面だ。彼は言う。「風は敵じゃない。一緒にプレーする仲間だ」と。これは単なる技術論ではない。予測不可能な状況を受け入れ、それと共に生きる知恵—まさに東洋的な思想がここにある。
都市から来た少年が、田舎の風と対話を始める。その過程で、彼は「コントロール」することから「調和」することへと価値観を転換していく。
「真実のベンチ」が教える共同体の意味
ドラマには「真実のベンチ」という象徴的な場所が登場する。バドミントン部のメンバーたちが、ここで本音を語り合い、時に涙を流し、和解する。興味深いのは、このベンチが勝利の後ではなく、敗北の後に最も重要な役割を果たすことだ。
現代社会では、SNSで見せる「成功した自分」ばかりが注目される。しかし、このドラマは違う。失敗し、恥をかき、それでも仲間と共にいることの価値を描く。ベンチに座る少年たちの姿は、競争社会で孤立する私たちへの処方箋のようだった。
父と息子—韓国的な家族関係の再定義
ヘガンと父ヒョンジョンの関係も注目に値する。元バドミントン選手だった父は、経済的に成功したとは言えない。韓国社会の基準では「失敗者」かもしれない。しかし、ドラマは彼を温かく肯定的に描く。
息子は最初、そんな父を恥じている。しかし、田舎での生活を通じて、父の持つ別の価値—情熱、誠実さ、コミュニティへの献身—を発見していく。これは、経済的成功だけを追求してきた韓国社会への、優しい批判でもある。
地方という「制約」が生み出す創造性
海南という設定も偶然ではない。韓国の最南端、まさに「端っこ」である。ソウルから見れば周縁中の周縁。しかし、この地理的制約が、逆に少年たちの創造性を引き出す。
設備がないなら工夫する。人数が少ないなら結束を強める。Wi-Fiがないなら、直接会って話す。現代のデジタル社会が忘れかけている、人間本来のコミュニケーションがここにある。
制約は不自由ではなく、むしろ自由への扉だった。少年たちは限られた環境の中で、無限の可能性を見出していく。
なぜ今、このドラマが必要なのか
2021年の放送から数年が経った今も、このドラマが愛される理由を考えてみた。パンデミック後の世界で、私たちは「つながり」の意味を問い直している。デジタル化が進む一方で、身体的な経験、直接的な交流の価値が再認識されている。
『ラケット少年団』は、まさにこの時代精神を先取りしていた。バドミントンという、身体と身体がぶつかり合うスポーツを通じて、人間関係の本質を描いた。
また、韓国社会が直面する地方消滅の問題にも、希望的な視座を提供している。地方は都市の劣化版ではない。独自の価値と可能性を持つ場所だと、少年たちの成長が証明していく。
「勝利」を超えた先にあるもの
最終話まで見て気づいたのは、このドラマが勝敗にこだわらないことだ。もちろん、試合のシーンは手に汗握る。しかし、本当に大切なのは、その過程で少年たちが何を学び、どう成長したかだった。
韓国ドラマによくある「逆転勝利」の爽快感はない。代わりにあるのは、じんわりと心に染みる温かさ。負けても立ち上がり、また挑戦する。その繰り返しの中に、人生の真実がある。
『ラケット少年団』は、競争社会に疲れた私たちに、別の生き方を提示する。一番にならなくてもいい。中心にいなくてもいい。大切なのは、仲間と共に歩み続けることだと。
海南の風に吹かれながらシャトルを追う少年たちの姿は、現代を生きる私たち全員への、優しいメッセージだった。