『模範タクシー』の後部座席から見える、もうひとつのソウル

深夜のソウル。タクシーの窓に映る街の灯りが、まるで無数の星のように瞬いています。『模範タクシー』を見終わったあと、私は実際に街でタクシーに乗るたび、運転手さんの後ろ姿をじっと見つめてしまうようになりました。


もしかしたら、この人も誰かの痛みを背負って走っているのかもしれない——そんな想像が頭をよぎります。


模範タクシーの日本版ポスター、タクシー運転席に座る主人公キム・ドギ(イ・ジェフン)


なぜタクシーという乗り物が「正義の器」になったのか?


タクシーは都市の血管のような存在です。朝の通勤ラッシュから深夜の帰宅まで、街のあらゆる場所を巡り、様々な人生の断片を運んでいます。


『模範タクシー』の制作陣がこの日常的な乗り物を選んだのは、偶然ではないでしょう。タクシーは誰もが利用できる「公共性」を持ちながら、同時に密室でもある。この二面性が、ドラマの核心テーマである「公的正義と私的正義の境界」を象徴的に表現しているのです。


主人公キム・ドギが運転する「模範タクシー」は、表向きは普通のタクシー会社。しかし電話一本で、法の網から逃れた加害者への復讐を代行します。この設定が絶妙なのは、タクシーという存在が持つ「匿名性」と「移動性」を最大限に活用している点です。


街の痛みを知る者だけが、街の正義を語れるのか?


ソウルという大都市には、無数の不条理が潜んでいます。高層ビルの谷間で起きる学校暴力、華やかな繁華街の裏側に隠れた性犯罪、そして法の抜け穴を巧みに利用する知能犯たち。


ドラマで描かれる復讐のエピソードは、実際の事件をモチーフにしています。特に印象的だったのは「塩田奴隷」のエピソード。障害を持つ人々が離島の塩田で強制労働させられていた実話は、韓国社会に大きな衝撃を与えました。


こうした事件を見ていると、ある疑問が浮かびます。果たして正義とは、法廷の中だけに存在するものなのでしょうか?


「殺さない復讐」という矛盾が生む、新しい倫理観


『模範タクシー』の復讐には、ひとつの鉄則があります。「殺人はしない」。


この原則は一見すると中途半端に見えるかもしれません。しかし、ここにこそドラマが提示する新しい倫理観があります。加害者を殺してしまえば、それは単なる「以牙還牙(目には目を)」の連鎖。しかし生かしたまま、自分の罪と向き合わせることで、真の反省と贖罪の可能性を残すのです。


ドラマでは加害者たちを秘密の施設に監禁し、被害者が受けた苦痛を疑似体験させます。これは現実の法では許されない行為ですが、視聴者の多くが「スカッとした」と感じるのはなぜでしょうか。


灰色の正義が照らし出す、社会の本当の姿


法律は白と黒をはっきりさせようとします。有罪か無罪か、合法か違法か。しかし現実の人間社会は、そんなに単純ではありません。


『模範タクシー』が描く「道徳的グレーゾーン」は、まさに現代社会が抱える矛盾そのものです。被害者の痛みに寄り添えない法システム、加害者の人権ばかりが守られる現実、そして正義を求める心と法治主義の間で引き裂かれる私たち。


ドラマを見ていて気づいたのは、復讐代行チームのメンバー全員が、過去に大切な人を失った経験を持っているということ。彼らは単なる正義の執行者ではなく、痛みを知る者たちの連帯なのです。


タクシーメーターが刻む、もうひとつの料金


通常のタクシーは距離と時間で料金が決まります。しかし『模範タクシー』の料金は、被害者の痛みの深さで決まるのでしょうか。それとも、加害者の罪の重さでしょうか。


このドラマが投げかける最大の問いは、「正義に値段をつけられるか」ということかもしれません。


現実の司法システムでは、罰金や懲役年数という形で罪に「価格」がつけられます。しかし被害者の失われた時間や尊厳に、本当に値段をつけることができるでしょうか。


ソウルの夜を走り続ける、希望という名の車


ドラマの最後、キム・ドギはまた新しい依頼を受けてハンドルを握ります。彼の表情は決して明るくはありません。復讐が本当の解決にならないことを、誰よりも理解しているからです。


それでも彼が走り続けるのは、この不完全な世界で、せめて誰かの痛みに寄り添いたいという願いからでしょう。


『模範タクシー』は単なる復讐劇ではありません。それは都市に生きる私たちに、正義とは何か、そして他者の痛みにどう向き合うべきかを問いかける、深い哲学的作品なのです。


次にタクシーに乗るとき、あなたは運転手さんの背中に何を見るでしょうか。そして、あなた自身は誰かの痛みを乗せて走る覚悟があるでしょうか。


街の灯りは今夜も、答えのない問いを照らし続けています。


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