『その年、私たちは』 記録された青春は、なぜ10年後に鮮明になるのか

ドキュメンタリーのカメラが回り始めた瞬間、高校生だったチェ・ウンとクク・ヨンスは自分たちの青春が「記録」されることの意味をまだ知らなかった。韓国ドラマ『その年、私たちは』を見終えて最初に感じたのは、時間という編集者の残酷なまでの正確さだった。


教服姿の男女が寄り添う『その年、私たちは』のポスター。Netflixで配信中の韓国青春ドラ


カメラは嘘をつかない、でも記憶は?


作中で繰り返し登場するドキュメンタリー撮影のシーン。10年前の映像を見返す二人の表情には、単なる懐かしさ以上の何かが浮かんでいる。それは「記録された自分」と「記憶の中の自分」のズレに対する戸惑いだ。


私たちは普段、過去を都合よく編集して記憶している。辛かった瞬間は薄れ、楽しかった部分だけが強調される。しかしカメラは容赦なく、当時の生の感情をそのまま映し出す。震える声、逸らされた視線、言葉にできなかった沈黙まで。


「再会」という名の再編集作業


10年後の再会は、単に昔の恋人と会うだけではない。それは自分たちの物語を「再編集」する機会でもある。大人になった二人は、かつて理解できなかった相手の行動の意味を、今なら読み解ける。


例えばチェ・ウンの回避的な態度。学生時代には「冷たい」と映ったその姿勢が、実は深い傷から来る自己防衛だったことが明らかになる。時間という距離が、ようやく相手の心情を俯瞰する視点を与えてくれたのだ。


青春は「完成」してから評価される芸術作品


このドラマが巧妙なのは、過去と現在を行き来する構成によって、青春を一つの「作品」として見せている点だ。進行中の青春は混沌としていて、その価値は分からない。しかし時間が経ち、全体像が見えて初めて、それぞれの瞬間の意味が浮かび上がる。


後悔とは、完成した作品を見て「ここはこう撮り直したかった」と思う監督の心境に似ている。でも、その未完成さこそが青春の本質なのかもしれない。


記録することの暴力性と救い


ドキュメンタリーという設定は、もう一つ重要な問いを投げかける。「記録される」ことで、私たちの感情や関係性はどう変質するのか。


カメラの前では誰もが少し演技をする。でも長時間撮影していると、やがて素の自分が出てしまう。この「演技と素顔の境界」こそ、青春期の人間関係の本質を映し出している。私たちは常に「本当の自分」を探しながら、同時に「見せたい自分」を演じ続けている。


タイミングという名の運命


「その年」というタイトルが示すように、このドラマは「時機」の重要性を静かに訴えている。同じ二人でも、出会うタイミングが違えば結果は変わっていたかもしれない。


18歳の自分には荷が重すぎた相手の痛み。28歳になってようやく受け止められる関係の深さ。青春とは、まだ準備のできていない自分が、大きすぎる感情と向き合う時期なのだ。


編集されない人生などない


最終的にこのドラマが伝えているのは、人生に「ディレクターズカット版」は存在しないということ。撮り直しはきかない。でも、過去の映像(記憶)をどう解釈し、どう次の場面につなげるかは、今の自分次第だ。


『その年、私たちは』は、青春を美化することなく、かといって単に苦いものとしても描かない。それは一度きりの、編集不可能な、でも解釈は無限に可能な、私たちの物語なのだ。カメラが止まっても、人生という名のドキュメンタリーは続いていく。


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