血まみれの拳で相手を殴り倒す女性の姿に、私は言葉を失いました。『マイネーム』の主人公ジウが見せる暴力は、美しくもなければ正当化されることもない。ただそこにあるのは、生々しい怒りと悲しみだけでした。
復讐は誰のものか?男性だけの特権だったのか
韓国社会において「복수(復讐)」という概念は、長い間男性のものでした。朝鮮時代の仇討ちから現代の犯罪映画まで、復讐の主体は常に男性。女性は守られる存在か、あるいは復讐の動機となる犠牲者でしかなかった。
しかし『マイネーム』のジウは違います。父親を目の前で殺された彼女は、誰かに頼ることなく、自らの手で復讐を選びます。10キロ増量し、格闘技を学び、犯罪組織に潜入する。その過程で失われていくのは、社会が求める「女性らしさ」でした。
なぜ彼女の復讐がこれほど痛々しいのか
ジウの復讐が見る者の心を締め付けるのは、そこに「正義」という美名がないからです。彼女は英雄ではない。ただ父を失った娘であり、その喪失感を暴力でしか埋められない孤独な人間なのです。
映画の中で最も印象的だったのは、ジウが鏡に映る自分の顔を見つめるシーン。血と汗にまみれた顔には、もはや昔の面影はありません。「化け物になっても殺したい」という台詞は、復讐が人間性を奪うことを如実に示しています。
暴力を振るう女性に社会は何を見るのか
韓国社会は急速に変化しています。#MeToo運動以降、女性の声は以前より強くなりました。しかし、それでもなお「女性の怒り」は不快なものとして扱われることが多い。
『マイネーム』が革新的なのは、女性の怒りを美化せず、そのまま画面に叩きつけたことです。ジウの暴力は醜く、彼女の叫びは耳障りで、その姿は決して美しくない。でも、それこそが真実なのです。
孤独な復讐者が最後に見つけたものは何か
クライマックスでムジンと対峙するジウの姿は、まさに復讐の化身でした。ナイフを握る手は震えず、相手を倒すことだけを考える。しかし復讐を遂げた後、両親の墓前で見せた表情には、勝利の喜びはありませんでした。
復讐は何も生まない―これは使い古された言葉です。しかし『マイネーム』はその先を描きます。復讐を通じて失ったものの大きさを知り、それでも生きていくことを選ぶ女性の姿を。
ノースタントが伝える身体性の意味
ハン・ソヒがすべてのアクションシーンを代役なしで演じたことには、大きな意味があります。傷つき、痛みを感じる身体こそが、このドラマの核心だからです。
CGや華麗なワイヤーアクションではなく、生身の肉体がぶつかり合う音。息が上がり、汗が流れ、血が滲む。その生々しさが、復讐という行為の重さを物理的に表現しています。
「強い女性」という幻想を壊すこと
メディアはしばしば「強い女性像」を称賛します。しかし『マイネーム』のジウは、その幻想を粉々に打ち砕きます。彼女の強さは美しくもなければ、憧れの対象でもない。それは生き延びるための、必死の抵抗でしかないのです。
この映画が示すのは、女性もまた人間であるという当たり前の事実。怒り、憎み、暴力を振るうこともある。そしてその結果、深く傷つくこともある。
復讐の先にある空虚さと、それでも生きること
最終話でジウが見せる疲れ切った表情は、復讐という行為の本質を物語っています。敵を倒しても、失ったものは戻らない。むしろ、復讐の過程で更に多くを失ってしまった。
しかし、それでも彼女は生きることを選びます。新しい名前で、新しい人生を。これは希望なのか、それとも罰なのか。答えは視聴者それぞれが見つけるしかありません。
『マイネーム』は単なるアクションドラマではありません。それは女性の怒りと悲しみ、そして生きることの重さを真正面から描いた作品です。美化も正当化もせず、ただありのままの人間の姿を見せることで、私たちに問いかけます。復讐とは何か、強さとは何か、そして生きるとは何かを。